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松原誠(1977年) 

カテゴリ:横浜

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松原誠(1977年)

■成績 .283 34本 110点


1962年に大洋に捕手として入団。1年目から出場機会はあったが、
捕手としての限界を感じて一塁手に転向。しばらく一塁手が定位置となるが、
67年にディック・スチュアート氏の入団に伴い前半は外野手に回り、後半からは
三塁手を桑田武氏と併用する形になる。68年から別当薫氏が監督となったと
同時に三塁手のレギュラーとして見出され、
70年から8年連続2桁本塁打をマークするなどをしたが、
タイトル争いには縁がなかった。

また日本プロ野球選手会を社団法人化させ、選手会長として
球団側との議論なども重ねる役割も担った。
しかしこの活動を球団側は忌避し、81年のトレードにより巨人へ移籍。
この際、「巨人に移籍しても嬉しくない、大洋で優勝するのが目標だった」と
コメントし涙を流した。しかし当時の巨人監督であった藤田元司監督に
「キミの野球に対する姿勢にほれたんだ」と言われ、奮起。
衰えもあり通年での活躍は出来なかったが、
81年の日ハムとの日本シリーズで代打で出場し、
江夏豊氏からサヨナラ本塁打を打つなど日本一に見事に貢献した。

引退後は大洋・巨人・広島などでコーチを行った。
巨人コーチ時代は指導した選手が軒並み調子を崩してしまった事から
「壊し屋」などと言われる時もあったが、大洋コーチ時代には高木豊氏と屋鋪要氏、
巨人時代には駒田徳広氏の打撃を開眼させるほどであり、
指導力がなかった訳では決してなかった。

■特能等解説

守備職人
股を大きく開いて低い姿勢で送球を受ける「タコ足」は
「戦前の中河美芳、戦後の松原」と呼ばれるほど一塁手の守備力の面でも
評価されていた。しかしパワプロでは細かく再現できないため、
今回は守備職人の採用という形を取る事とした。

流し打ち
通年を通して二塁打が多い選手。再現年の翌年である78年には
当時の日本記録の45二塁打をマークした。

弾道3
しかし78年にはそれに伴いホームラン数が半減。
これには大洋の本拠地が川崎球場から横浜スタジアムに変わった事も
多少影響しているものもあると考え、川崎球場最後の年である
77年の再現でも弾道3に留める形となった。
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